ブーツの音が、空気の冷たさが、すうと息を吸ったときの胸にしみる匂いが。 この街で暮らし始めてまだ一年と半分だけれど、切なくなるには十分すぎる ほどの思い出が、そんなひとつひとつの秋だと感じる瞬間に詰まっている。 あれからあのひとの働くスーパーには入っていない。最寄の駅で、一番利用 していた場所だったのだけれど。笑顔で話す自信はあるのだけど、今日もま た店の看板を見上げたあと、バス停まで少し早足で向かった。

雑貨屋さんや文房具屋さん、立ち寄るどのお店にも来年の手帳が並ぶように なった。ぱらぱらとめくって、日記を書くときを想像する。カバーが可愛く ても、広く書き込めるほうがいいなあと思って手帳を閉じた。お気に入りの もの、みつかるかなあ。手帳を見に来ただけだったのに、可愛いペンケース を見つけて買ってしまった。

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ことことこと。一人でいると煮物を作っている時間はとてもとても長く感じ るけど、テレビの前でのんびりのちとお話しながら過ごしていると、じゅっ とお湯が溢れたおとで時間の流れに気が付く。鯛のあらだきで取ったお汁を 味付けて、ふたりで鼻の頭に少し汗をかきながら「おいしい!」って台所で 笑った。ごはんに鯛をのせて、お汁をたっぷりとかけて、いつもよりも少し 豪華な鯛茶漬け。おいしい、なあ。

顔をうんと近づけて、大きな肩にぎゅうと包まれた。どきどきではなく、心 地よさで頬が緩んでしまう。「どきどきせんけど、しあわせだって思う」と 言うと、「俺はちょっとどきどきするよ」とのちが笑っていた。短いくせ毛 は光に当たると茶色に透けていた。小さな子どもにするみたく撫でてあげる と、「こうしてる時間がいちばん好きだ」と、とろんと溶けそうな声。私も 同じこと思ってたよ。

9月25日(日) 晴れ

 

春の始まりのころに隣り合わせに座ったベンチのある公園まで、ふたりで歩 いた。右手にすうと風があたった。鼻をすする音がやけに響いて、また明日 の朝も鏡の前で腫れぼったい目のまわりを冷やすのにうんと時間を費やすの かなあなんて、ぼうっと考えた。

ベンチではなく、花壇の隅にそうっと座った。のちがすぐ横に座ろうとした ので、わざと少し離れてもう一度座りなおした。「今度こそもうだめなのか なって思った。今日だってもう終わりにしようって言いにきたつもりだっ た。でもプリクラ見たらだめやね。直接会ったら、もっとだめだ。そんなこ と言えないや。いつも泣かせてごめん。」と、のちが私の頭を撫でながら、 ゆっくりと言ってくれた。

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いつもお世話になっている教習の先生は「もう30過ぎたのにいつまで経って も恋愛だけは不器用だなあ。」なんて笑っていた。のちといつもけんかが絶 えないことを相談すると、「毎日会っているっていう余裕からくるんじゃな いかなあ。月に一度しか会えないような関係だったら、その一度が大切でけ んかなんかしていたらもったいないやろ。」と先生。そうかあ、と大きく頷 いたら「悩み事が運転に表われてるみたいだよ。今日は彼氏と仲直りして、 明日の卒検に備えて早めに寝るようにね」と笑われてしまった。

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青空が優しい。いつのまにかせみの声は聞こえなくなって、夏のあいだにう んと育った川原の草が揺れるおとが響いている。長い歩道を大好きなパンを 頬張りつつ歩いた教習までの道のり。昨日、無事に卒検に合格したので、あ とは試験場での学科試験のみになった。お世話になった先生は私を見つける とすぐにこちらへ歩いてきてくれて、おめでとうとありがとうを伝えてくれ た。

教習官なのにサーファーで、とびきり優しくて恋愛に不器用だと自称する先 生。もう会うことはないのかなあ。人との出会いはとてもかけがえのないも ので、いつでもやっぱりすこし切ない。別れの季節はきっと春だけではない のだ。ボタンをひとつ押して、電話の向こうののちに受かったことを伝える ために唾を少し飲み込んだ。

9月24日(土) 晴れ

 

ポップコーンの透明のふたに、私がのちをぎゅうとしている絵をペンで書い ていたら「ほんと平和だなあと思うよ」と、隣にいたのちがくすくす笑って いた。私だって悩みごとは頭の中で日々溢れかえっているのだけどなあ。ふ っと照明が落ちて、思わずのちのほうに振り返ったら、のちは人差し指を口 にあててにこっと笑っていた。

上映中はもちろんおしゃべりなんてできないけど、それでも右手がのちの左 手にぎゅうって包まれているから、思わず笑顔になってしまう。向かい合わ せでおしゃべりしているとき、みたく。スクリーンの中から笑い声が聞こえ て、それにくすくすと笑っていたらのちが私の頭を撫でてくれた。

そうだ、と思い出したようにのちは「去年の夏ごろ、さやちゃんがが好きだ って言ってたカフェオレ、部活のあととか昼休みに俺続けて買ってたんだよ。 気付いてなかったけど。」と笑ってた。映画からの帰り道、地下鉄の中でも らった温かいひとことに頬が緩みぱなしだ。

窓からすう、と涼しい風。のちの腕にぎゅうとつかまって歩いたとき、夏が 終わったんだなあと思った。長袖ののちはほんの少し猫背で、風邪気味なん だと鼻をすすっていた。これから待っているどんな季節も、のちの横で笑っ ていたいなあなんて、ほんの少し胸の真ん中らへんがくすぐったくなった。

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去年の春から半ば家出状態で生活していたのだけど(生活費も家賃も何もか も仕送りゼロ生活!)、それを称えてか母が免許取得記念に車を譲ってくれ るみたい。…車通学て!「さやかが頑張ってくれているおかげで本当に助か ってるんよ」と母。他の誰に認めてもらうよりも、母のひとことはいつでも 私を強く強く動かす。

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些細なことからのちとけんか。友達に戻ろうかなんてお互いの気持ちが同じ になりかけたときに、日記を読み直した。のちは今まで出会ったどんな友達 より好きなひとより、心地よさをくれるひと。自然と涙が溢れた。のちのこ とを想ってぎゅう、と苦しくなることが増えた。大切に、大切に思うように なった。

きちんと、素直になれますように。いつだかのちが添付してくれた着信メロ ディを聴きながら眠った。明日はちゃんと、ごめんなさいを言おう。

9月16日(金) 曇り

 

 

お菓子を食べているときと耳掻きをしてあげているときは本当にさやちゃん 大人しくなるね、とのちが笑っていた。頭をのせていたのちの膝をぎゅうと して、目を閉じた。心もからだもリラックスしていると感じることが増えた。 目を閉じていても、うんと目尻を下げて笑ってくれているんだってわかる。 それはうぬぼれかもしれないけど、たぶんきっとそう。

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買ったばかりのブーツを足に慣らすために、近くの自販機まで。朝の持って いる独特のひかりが好きだ。見上げると境界線のはっきりとしない雲がいく つか浮かんでいた。ピントを少し手前に合わすと、木々の葉の色が深い緑に なっていた。高校生のころ、日本古来の色について片端から調べたことがあ ったのに、こういうときにすぐに表すことができないんだから、なあ。

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どれだけ解こうとしても、のちの左手は私の右手を探してくれた。好きじゃ なかったらこんなふうに何時間もかけて歩いて送ったりしないよ、と言って はくれたけど。飲み会なんて大きらいだ。「じゃあ私が元彼くんに肩引き寄 せられて嬉しそうだったらどうする?頬触られてたらどうする?」というと、 「絶対怒る」と言われた。だから私も怒っているんだよ。

灰色の雲は千切れて、その向こうにいくつか星が見えていた。うんと涙を流 したからか、小さな光の点はほんとうに星型をしていた。自販機の横の小さ な段に座ると、すうとからだが楽になった。ひんやりと缶ジュースが喉に気 持ちよくて、また涙が出てきた。

ドラマだとか漫画だったら、パチンと頬を叩いて別れを告げていたんだろう なあ。いま、の苦しさと別れることの苦しさでは、きっと後者のがつらいこ とくらい分かってる。離さないよって握り締めてくれた手が、さやちゃんの 指定席だと言ってくれた大きな肩が、これからもずっと言葉通りだったらな あと心から思う。

たぶん思ったよりもずっとずっと、のちのことが大切だよ。

9月12日(月) 晴れ

 

 

今日は二時間連続だから少し遠くまで行ってみようか、とお世話になってい る教官の方が選んでくれたコースは、ぐるぐるとカーブはいくつも続いたけ れど海と空がうんと見渡せる道だった。休憩、とリンゴジュースを買ってく れた。台風の過ぎた空は優しく、でも強く光っていた。雲は千切れ千切れに なっていて、風がいつもよりも涼しく感じた。秋、なのかな。

バイトのあと、枝ちゃんとファミレスへ。制服のままおつかれさまってグラ スを鳴らした。お互い一人暮らしで、毎月同じくらい稼いでいて、趣味と生 活を両立させる難しさと達成感を共感できるひとだ。高校生のころに毎日の ように聴いていたアルバムの歌い出しをふたりで口ずさんで、ふたりで笑っ た。まったく別の場所で過ごしていたのに、どこか繋がっていて、少しくす ぐったかった。こうして今日笑ったことも、いつかまた笑って思い出せるの かなあ。

たんちゃんはみっちが三日後に帰ってくるんだ、と嬉しそうだった。みっち はいま、イギリスにいる。どんな再会をするのかなあ。たんちゃんのことだ からきっと泣いちゃうんじゃないかな。たんちゃんが休憩のときにくれたチ ョコチップのクッキーは何だかとっても甘かった。にやけちゃって、と言っ たら怒られてしまったけど、でもやっぱりたんちゃんは笑顔だった。

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たまごとハムだけだったのに、ひとつはケチャップ、ひとつは三段に、とい つもよりもほんの少しだけ時間をかけてサンドウィッチを作ってみた。あり がと、と目尻にうんと皺を作って笑ってくれた。色違いのグラスに、空っぽ のお皿。冷蔵庫にはいつもリンゴかオレンジ、ぶどうのジュース。

てのひらの温もりだとか、大きな肩幅。猫みたいに目をこする癖。消し忘れ た電気のスイッチを必ず押してくれること。ふとした会話のなかで、呼び捨 てに私の名前を呼んでくれること。ひとつひとつが心地よくて当たり前に日 々に溶け込んでいるから、意識をしないとこうして文字にできない。日々は 幸せで、温かくて、やわらかくて。

好きだとか嫌いだとか、大切なひとに対する感情はきっと言葉に、文字なん かにできないものなんだなあ。一緒に玄関を出て、バス停に通じる横断歩道 で原付に乗ったのちに手を振った。のちの羽織っていた黒のパーカーがふわ あとなびいていて、だんだんと原付の音が周りの車の音に混じっていった。 読みかけの小説の栞を探して、ページを開いた。当たり前の毎日は、とても 心地よくて、ときどきくすぐったい。

9月7日(水) 曇りのち晴れ

 

このあいだのちとお出かけしたときに見つけた可愛い小さなノート。バイト のあとファミレスで向かい合わせに座っていたときに、何に使うか決めたよ と見せてみた。「さやちゃんらしいなあ」と言ってくれた。一ページ目には ノートを買った雑貨屋さんの名刺と、お店の開店している時間と、次にそこ で買いたいものなんかをシンプルにまとめてみた。名刺は取り外せるように、 のりで貼らずにカッターで入れた切れ目にそうっと挿んでみた。

淡い色のスタンプ。水性のマーカー。お気に入りのボールペン。好きなもの を使って、好きなことを詰め込んでいく。きっとまた手帳や日記、アルバム と同じくらい大切なものになる。お気に入りのカフェや雑貨屋さんでいまま でにたくさん名刺をもらったから、ひとつひとつページにできたらいいなあ。

小さいころ、お母さんの真似をしたくて手帳を買ってもらったことがあった。 友達や家族の誕生日を書き込んで、お小遣いの日にシールを貼った。たぶん きっと手帳を彩ったのはそれだけで、持ち歩くこともなく机の奥にいつのま にか眠っていた。

いまは手帳なしではたぶんきっと生活できないだろうなあ、と思う。時間に 追われるようになったといえばそうなのだけど。あのころの私がいまの私を 見たら、思わず真似をしたくなるかなあ。お母さんの声を聞きながら、手帳 を開いて次に高松に帰る日を確認していたときに、ふとお母さんの使い込ま れた手帳を思い出した。

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お盆のころから通っていた教習。今日やっと仮免試験に合格しました。明日 は初めての路上。何回もお世話になっている教官の方が担当なので、受かっ たことを早く伝えたいなあ。広いロビー、心地よいBGM。教習所の何もかも が大好きなのですが、一番は駅から教習所までの長い歩道かなあ。歩くこと がもっともっと、好きになった。

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明日はお昼から夕方まで教習で、そのあとは高速バスで高松。3日に母校の 文化祭があるので、あゆみちゃんと行くことにしました。最近、バイトの休 みが取れればすぐに高松に帰っている気がする。ごめんねのち。のちはサー カスのバイトを始めたみたい。…サーカス?

9月1日(木) 晴れ

 

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