ドアを開けた瞬間いちごの香りがした。松葉杖がなくても立てるよ、と久美 ちゃんが両手を広げてみせていた。わかったわかった、とくすくす笑いなが ら私は助手席側に駆け寄って久美ちゃんの手をとった。退院祝いにもらった けんあとでいっしょに食べよう、と久美ちゃんが鞄から出したビニル袋に入 ったいちごは、ふたりでランチをしているあいだに香りを車中に広げてた。 甘い匂いだって笑った。

いつか小さな妹の手を引いて「いっせいの、せ」とエスカレーターに乗った みたく、久美ちゃんが段に足を乗せるタイミングを外さないように見守った。 ふたつの買い物籠をひとつのカートに乗せて、ふたり分のお買い物。今日の っちにカレー作る約束したから、と豚肉を籠に入れていると「私もカレー作 ることにする」と久美ちゃん。もうひとつの籠にも豚肉のパックを入れて、 ふたりで笑った。

もうエスカレーターは恐いから、とエレベーターのスイッチを押した。去年 の秋に免許取ったのはこのためだったのかも、と私が言うと、久美ちゃんは ほんまやあ、と嬉しそうだった。完治したらあたしも教習行くことにしてる から、と笑う久美ちゃんはやっぱりきれいだ。退院することを最初に教えて くれて、こうして頼ってくれて、ほんとに嬉しいよ。頼ってくれてありがと う。

モデルルームみたいにシンクがぴかぴかのキッチン、きちんと畳まれた洗濯 物や栄養たっぷりのヨーグルト。どうやら久美ちゃんのお父さんが愛媛から 駆けつけてくれたときに部屋をうんときれいに片付けてくれたようで、きゃ あとかわあとか騒いでいる久美ちゃんの横で私は涙ぐんでしまった。親子っ て家族って何だか温かいなあ。

久美ちゃんパパが新しく買ってくれていたクマさんの毛布に包まって、バイ トまでの間お昼寝させてもらうことに。ゼブラ柄のカーペット捨てられちゃ ったみたい、なんて久美ちゃんの声がだんだんと遠くなっていった。好きな ひと、大切なひとのためにとことん努力することってたぶんとっても大切だ。 目が覚めてすぐに食べたいちごは甘くて大きくて、ひとくちでは食べれなかった。

*

大きなじゃがいもが苦手だといつか言っていたのを思い出して、鍋に入れよ うとしていたじゃがいもをそれぞれ半分の大きさに。お風呂場から台所に通 じるカーテンから顔を覗かせて「まだルゥ入れないの?」と急かす私を「ま だまだ、焦っちゃだめなの」と笑う母の気持ちがいまの私ならわかる気がす る。にんじんが軟らかくなるように、じゃがいもが軟らかくなるように、ね。

バイトが終わったあとすぐに来てくれたのちはジャンパーの中にワイシャツ を着ていた。バイト用だとわかっていても、会社帰りの旦那さんを迎えてい るみたい。大人ぽく見えたよなんて言ったらきっとこれから毎日ワイシャツ を着てきそうだから言わないでおいたけど、すこしどきどきしたのは本当だ よ。カレーだって笑うのちにぎゅうってしながら、はやく食べよって笑った。

2月28日(火) 曇り

 

誰かとふたりでいること、が大好きになったのはきっと彼女のおかげだ。午 前中からお昼にかけて雨が降っていたけど、待ち合わせの時間が近づくにつ れて重たい雲はどこかへ行ってしまった。横断歩道を挟んで、久しぶり、と 手を振った。遠くてもあゆ美ちゃんが笑っているのが分かる。これから学校 へでも行くみたく、雨止んでよかったねと笑った。

心地良いピアノの生演奏、店内に広がる珈琲の香り、木製のテーブルや椅子 はこのお店ができる以前にもどこかで大切に使われていたのかもしれない。 日替わりパスタはイカ墨パスタ。墨汁みたいなの想像してた、なんてくすく す笑いながらくるくるとフォークをまわした。ふたりで口元を押さえて、彼 とのデートのときはイカ墨頼んじゃだめだねってまた笑った。

くすくすと笑うと、珈琲の表面に映っていた照明がゆらゆらと揺れる。ミル クを混ぜてうずまきをつくったみたいに、白く揺れてた。苦手だった珈琲を、 心にゆっくりと染渡るまで味わえるようになったこと。この香りをまたどこ かでみつけたら、今日のことを思い出すんだろうなあ。たぶんこうやって、 大事なものが増えていくんだ。

ラストオーダーの時間を過ぎても、閉店しても、まだまだずっとお話してい たくて。自転車で来た道を、ふたり歩いて帰った。いつかの学校からの帰り 道、古い映画の一場面みたいに線路の真ん中を歩いた。振り返ればいつも彼 女は笑って傍にいてくれてた。あのとき頭の中に居座っていた恋の悩みはも うすっかり忘れてしまったけど、大丈夫だよってその笑顔に私はいつもどれ だけ救われたかわからないよ。

次に青信号になったらバイバイしようね、と言ったのになかなかその場を動 けなかった。大人っぽくてとってもきれいだった彼女が更に女性らしくなっ ていたのは、素敵な彼のおかげだね。何度も信号を見送って、すっかり道路 を走る車も見当たらなくなったころ、じゃあ今度こそあの信号が青くなった ら、とふたりで約束した。

玄関を開けるとふわ、と鼻をくすぐる匂い。鍵が少し以前より錆びたのか、 重く感じた。深夜の帰りを怒るわけでもなく、おかえり、とお母さんが迎え てくれた。学校から帰るたびに進まない恋の話をしていたリビングで、今日 のことを話した。イカ墨って墨汁ぽくないんだよと言ったら当たり前でしょ と笑われた。お母さんの優しい目が大好き。ゆっくりとした口調が大好きだ。

休みが取れる度にこうして高速バスに乗り込むのは、このためなんだなあっ て。また来月帰るけんね。

2月20日(月) 曇り

 

こんなに坂があるって知ってたらスニーカー履いてきたのになあ、とブーツ を鳴らした。すこしふてくされた私の右手を引いて、私の足取りを一瞬だけ だったけれど軽くしてくれた。くすくすと、ふてくされていた頬が緩んだ。 このブーツは秋からのお気に入りで、のちといるときは特別だから、何だか いつもこのブーツをコツコツと歩道に響かせている気がするよ。

駐車場のおじさんにパンフレットをふたつもらって、赤いマルをしてもらっ た。坂の少し先には同じようにパンフレットを覗くカップルの姿が。なんだ かあのふたり大人なデートだね、と言うと、俺らは子どもなの?とのちが笑 っていた。赤いマルは坂の向こう、だけどたぶんマルまでの道のりがとって も楽しいんだよね。これ買おうかなあと古びた風見鶏を手に撮るのちの背中 を写真に収めながら、振り返るのちにくすくすと笑いながら、そんなこと思 った。

星座、血液型、好きな色や果物、ファッションだとか口調やしぐさをもエッ センスにしてぴったりの香料でオリジナル香水を作ってくれる館を見つけた。 作りたいのに素直に言い出せない私に気付いたのか、のちがせっかくだから 作ろう?と手を引いてくれた。作成日、の欄には『平成18年2月14日』。何だ かロマンチックだねってふたりで笑った。

みはらし台へ上るまでに封を開けた香水はとってもきれいな六角形の小さな ボトルに入っていて、ふわあと粒が舞ったみたく香りがはじけた。よかった ね、と子どもをあやすみたいにのちが言うから少しすねたふりをしたけど、 何だか遠足の途中でお菓子の封を開けたみたいなどきどき感で、こういうの っていいなあと思った。心から思った。

*

やっぱりふたり一緒の日はなぜだか曇り空。とっても曖昧な空だから傘は欠 かすことができなくて、でも開くことはめったになくて。ふたり向かい合わ せに座るときいつも傘の置き場所に悩んでしまう。今度どこかへお出かけす るときは天気予報をきちんと見てから決めようか。たぶんそれでも念のため に折り畳み傘は鞄の中にあるのだろうけど。

*

のっちゃん、といつもみたくぎゅうっとしたら、ふわっと少しくすぐったい 香りがした。驚いてぱっと顔を放すと、少し付けすぎちゃったかなあとのち が鼻の頭を掻いていた。あたらしいのちの香り。たぶんきっと、もう好きだ。 私の新しい香りも、のちにとってそうでありますように。

2月14日(火) 曇り (チョコは喜んでもらえました!よかった)

 

おやすみを言ったあとも寝てしまうのがもったいなくて、のっちゃんあのね、 と何を話すわけでもないのにそう呼びかけてしまう。くすくすと笑って、次 は何おしゃべりしてくれるん?とのちが言ってくれるから、私はのちがまた 笑ってくれるといいなあと思って、いつか読んだ本の話や友達とのおしゃべ りのことを思い出すために目を閉じる。たぶんいちばん幸せな時間だ。

広げてくれる両手にそうっと飛びこむと、ぎゅうっと充電をしてくれる。ぷ はっと息を吐きながら見上げると、のちがいつもの笑顔でじゃあまたな、と 言ってくれた。バイバイをしたあと、のちの乗った原付が遠くなっていくの を見送った。空はすうっと優しい水色。きょうはいつものジャンパーはクロ ーゼットでお休みさせて、このあいだ買った優しい茶色のカーディガンを袋 から出そう。

*

愛しいなあってことばが頭に浮かぶようになった。どきどき、よりもとくと くととっても心地良く胸が鳴る。ぎゅう、としながら耳の後ろに鼻をうずめ る。いつかお母さんにしたみたく、頬と頬を寄せる。思わず髪をくしゃくし ゃってしたくなる想いを、息を止めていても苦しく感じさせない想いを、彼 も感じてくれていたらいいなあ。

*

車をぴかぴかに磨いて、なでなでしてみた。バイト先でタイムカードを押す ときにいつもよりも元気にオハヨウゴザイマスと言ってみた。小物棚のカー テンにレースを縫いつけてみた。ほんのすこし愛情をプラスするだけで、背 筋をきゅっと正したような、そんな気持ちになる。たぶんとっても大切なこ と、だ。

*

チョコレートを食べると恋をしたときと同じ気持ちになるんだって、と高校 のときに友達が休み時間に教えてくれたこと。バレンタインが近づくたびに いつも思い出してた。チョコをとろんと溶かしているあいだ好きなひとを想 ってしまうのは、ついついひとくち味見をしてしまうからかなあ。

まだ部員とマネージャーという関係だった、去年のバレンタイン。マネージ ャー全員からのチョコとは別に、コアラのマーチをのちにプレゼントしたの を覚えてる。「まつげのついてるコアラあったよ」と、すぐにのちは走って 来て教えてくれた。くすくすと笑いながら私は「まゆげのコアラさんがラッ キーなんだよ、おしいね」なんて言ったんだっけ。

あのときの私たちは、来年のバレンタインに手を繋いでお出かけしているな んて想像できたかなあ。コアラのマーチが本命チョコになるだなんて、想像 できたかなあ。たぶん誰かが教えても、ふたりとも信じなかっただろうなあ。

来年の私たちのことなんてやっぱり想像できないけど、明日ののちなら想像 することができる。目をしわくちゃにさせて、にかあって笑って、ありがと って笑ってくれる。たぶんきっと、ぜったいそうだ。

2月13日(月) 晴れ

 

背中を追う恋ばかりしていたころ、とびきり甘い恋愛小説に頬を染めていた ころ、いつか心の底から一緒にいることを楽しめるような、そんなひとと恋 人同士になれたらいいなあって思っていた。ふわあとあくびをするのちの左 手をぱっと離しながら、「一緒にいるときはあくびしないって約束したの に」と、わざとすねたふりをしてみた。ごめんごめんさやちゃん、とのちの 慌てた声を背中に感じながら、もう少しすねたふり。のちと一緒にいること、 心の底から楽しいなあって思ってるよ。

可愛いコートを見つけるたび鏡の前から動かなくなったり、部屋のクロゼッ トに既にあるようなスカートを何枚もひらひらさせたり。「さやちゃんの好 きな服買ってこいって言われたら絶対買ってこれる自信あるくらい、なんか 最近好みが分かってきたよ」と、のちに言われた。嬉しいのに素直に伝える のが恥ずかしくて、「のっちゃんセンスないから絶対頼まないけど!」なん てそっぽ向いてしまった。

*

あと30分でバイトだ、なんて時計を見ながら部屋でのんびりしていたら、ピ ンポンとベルが鳴った。ガス屋さんかな、なんておそるおそるドアを開ける と鬼のお面をしたひと。くすくすと笑って抱きつくと、「鬼に抱きついたら あかんやろ」と鬼が笑っていた。バイト先で買わされたんだよ、と太巻きを テーブルの上に並べだした。食べるときしゃべったらだめなんだよと言った けど、ふた口目でくすくす笑ってしまった。

鬼はそと、福はうち。「本当はさやちゃんのバイトが終わったあと会いに来 ようと思ってたけど日付変わっちゃうし。やっぱり行事ごとはその日にしな いとね」と、のち。鬼のお面と節分豆を部屋に散らかしたまま、私はバイト の準備をしてのちは帰って行った。ほんのわずかだったけれど、とっても幸 せな時間。

*

友人が骨折をして入院をすることに。そのときにのちとふたりで病院を探し たり、入院に必要なものを買いに揃えたり。友人も一人暮らしだから、やっ ぱり支えあわなくちゃね。ばたばたと一日が終わったあと、ファミレスでご 飯を食べながら、「俺らもう夫婦みたいやあ。」とのちが笑ってた。

いつだったか、これからもし別れることがあっても絶対さやちゃんのことず っといろんな場面で思い出すんだろうなって思う、とのちが言ってた。その ことばはとっても温かいようでとっても切ないことばだ。車のフロントガラ スから見上げる小さなプラネタリウムは有名な星座を結んでいなかったけど、 いくつも線をつくってた。ひとりになると、ときどき涙があふれるようにな ったよ。

恋ではなくて、付き合う、ということばだけでは足りなくて。のちと一緒に いる時間は何だかとっても特別だ。バレンタインはバイトのお休みが取れた から、うんと素敵な時間を過ごしたいなあ。いつもとびきりの幸せを届けて くれるあのひとに、うんと甘いチョコを作ろう。

2月4日(土) 曇りのち晴れ

 

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