錆びが染みたブロック塀の上をゆっくりと船が走っていた、ように見えたの はほうっとしていて少し猫背になっていたから。大きな窓をスクリーンに、 海が広がる。目をこすったときみたく、海と空と空気は白くあいまいになっ ていた。イヤホンからは心地良いギターの音。最近は歌詞のない曲を聴くこ とが多くなった。

となりのトトロに出てきそうな小さな坂道。土の匂いを懐かしい、と思って しまうのは舗装された歩道を歩く機会が多いからなのか、背が伸びて土の匂 いが届きにくくなったからなのか、なあ。次に渡るときはぜったいに折れて しまいそうだ、と渡るときにいつも感じてしまう一枚の木の板。きし、と音 をたててきょうも私を渡らせてくれた。

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すう、と息を吐いたのちが少し遠いひとに思えた。私と一緒にいるときは一 度も煙草に火を付けたことはなくて、右手に煙のにおいを残してくることが 何度かあったくらいだ。キャンパスの喫煙所、のちを見つけてすねたふりを した。入学当時、煙草が吸えないんだってチュッパチャップスをくわえてい たのちは可愛かったのになあ。

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パチ、と蛍光灯に虫が当たったおと。深夜2時、眠れなくてのちと夜のコン ビニへ歩いていった。手を繋いで、サンダルを鳴らして。ふわあ、とあく び。両親の前よりも緊張せずにいられるなあ、なんてふと思うことがある。 母との電話、強がってバイバイと笑った。のちの前では不安でいっぱいだっ て大泣きをした。

店員のおじさんがのちを見てにか、と笑っていた。「眠れなかったとき、よ くさやちゃん家から歩いてきてたから覚えられたみたい。おじさん嬉しそう にいつも話しかけてくれるんだよ」とのちがそうっと教えてくれた。ふたり でぺこっとお辞儀をして、ジュースを入れた袋をぶら下げた。

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お気に入りの小さな本屋さんで買った本のタイトルに、「夾竹桃」の文字。 小さい頃読めない文字を指差して、母をよく困らせていたなあ。そうっと指 でなぞったあと、辞書を開いた。“キョウチクトウ”夏の花で、暑さに負け ず元気に枝を伸ばして花を咲かせるみたい。キョウチクトウ、夾竹桃。大切 な一冊になりますように。

5月31日(水) 晴れ

 

白いパンプス、裾が少し解れたジーンズ。バケツに半分、水を入れた。きゅ 、と絞るとぽたぽたとアスファルトに淡い水玉がいくつもできた。口笛みた いな鳥の鳴き声が響いていて、両手の先が風にあたってひんやりと気持ちよ かった。水色の空の下で、ぴかぴかに車を磨いてあげた。母がいつも小さい 子を撫でるみたいにこの車を大切にしていた。ふとしたときに母の想いと重 なることが多くなった。久しぶりに、会いたい、なあ。

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すてきな本を手に取る瞬間は特別で、ページを開くたびにきゅ、となる。店 員さんの黒縁眼鏡の向こうには優しい笑顔があって、思わず私も頬が緩んだ。 ビルの4階、小さな本屋さん。一歩あるくたびに床がきし、と音を立てる。 時間を忘れるってきっとこういうこと。

誰かとふたりでいるとき、私はとっても私らしくいられるように思う。のち の前だったり、パルちゃんの前だったり、アルバイト先のお客さんの前だっ たり。とても心地良い時間を届けてくれるひとがたくさんいるなあって、い つも誰かと別れたあとに気付く。目を閉じて、さっきまでのおしゃべりを思 い出しながら。

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アイスコーヒーをオーダー。窓からすうと抜ける風が心地良い。ウクレレの 音色がBGMになった、ゆったりとした金曜の午後。甘酸っぱいベリーは口の中 でとろんととけた。皮でできたコースターにはまあるい円がうっすらとでき ていた。最後のひとくち、を食べるのが勿体なくて、さっきからフォークは 少し落ち着きがないみたい。

5月12日(金) 晴れのち曇り

 

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