「宇宙へ飛んだ、たった15日間で人生観が変わってしまうなら、それまで過 ごした三十年は何だったんだって、そう思いますね。」もし宇宙旅行の経験 で人生観が変わったのならば、それは離陸するときには既に変わっているの だと。勉強をして、幾度の訓練を通して、覚悟をして。そのあいだにひとは 強くなっている。

すとん、と心に何かが触れたよう。年を重ねた人が発する言葉のひとつひと つは、まだ青々とした心にずしりと響く。この重みが好きで、月に一度、必 ず向かう螺旋状の廊下。凛と姿勢を正して、ぱちぱちと心からの拍手を贈っ ているゆいちゃんの隣で、私もペンとノートを置いて両手を自由にさせた。

「月に一度、遊ぶ前に講演会へ行くだなんて、大人の付き合いだね」と笑っ た。春色の洋服に、流行りのCDにお金を使うのもいいけれど、こうして心に 余韻を残すことができること。とても素敵な、休日の過ごし方だ。赤い揃い のジャージを羽織った女の子たちが、ひとつの駅で降りて行った。背中にラ ケットの黒いケースを負って。それぞれの、休日の過ごし方。

裸電球の灯りがひとつ。ラテに描かれたドラえもんが、まあるく揺れていた。 大通りから少し外れた路地の、4階。だんだんと、窓が鏡みたく店内を映して いく、そのゆっくりとした時間の流れを感じられること。白壁をスクリーン にさせて、音のない古い映画が、店内をそっと燈していた。

*

本を出すこと、がこんなにも心を動かしているのは。出版社のドアを叩いた そのときから出版活動が始まったのではなくて、きっと、7年という積み重 ねがあるからだということ。すとん、と心に触れたのは、この想いだ。真っ 直ぐに、想いを聴いてくれてありがとう。ゆいちゃんと過ごす時間が、とて も好きです。

3月31日(土) 曇りのち雨  guest : Makio Mukai  cafe : anthem

 

ごつごつとしたじゃがいもを見たとき、いつだったか枝ちゃんが「店長がカ レーに入れるじゃがいもみたい」と笑っていた。閉店後の、照明を落とした テーブル席。器で隠すように盛られたサラダに、香味わさびのドレッシング をたっぷりと。「昨日作っておいたんだけど、食べて帰りなって声かけよう と思ったときには池田さんいなかったからなあ」と、サラダもありがとうご ざいます、と言ったのに、返ってきた声は少し照れているよう。

スプーンの音が、響く。テーブルの木目が優しくて、それをそっとなぞるよ うに白熱灯が淡く光を届けてくれた。テーブル席に常連さんが多いこと、い つも夫婦で来店されるお客さまの旦那さんが「今日は奥さんが外出してるけ ど、一人でも来たくなって」とカウンタ席で笑っていたこと。すこし、わか った気がした。

いたずらな目をしてくすぐってくるリナちゃんが「このあいだお姉ちゃんお らへんかったやろ」と笑っていた。小さな手をぎゅうっと握って、「気付い てくれたんやあ」と笑った。幼稚園を卒園する頃に通っていた定食屋のお姉 さんのことだなんてすっかりと忘れてしまったから、おとといのことは覚え ていてくれても、こうして手を繋いだこと、リナちゃんは忘れてしまうのか なあ。

二晩目のカレーは、とてもおいしい。

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帰り道いつもそうしていたように、電話をかける。一日遅れのハッピーバー スディを伝えようと思ったけれど、少し曇った声色に戸惑ってしまった。愛 しくて仕方がなかった毎日は、もう戻ることはないのかな。橙色に照らされ た歩道は何ひとつ変わっていないのに。川を流れる水の音が、やけに大きく 響く気がした。

3月29日(木) 曇り Happy birthday dear Nochi.

 

“見た目よりもずっと、楽しんでいますよ”と、眠る前に見たドキュメント で物静かな女性が笑っていたのを思い出した。そんなふうに深みのある言葉 を言いたいなあと呟く私の隣で、「嬉しいときに嬉しさを押さえられずに楽 しそうにしているところが、いいところじゃないすか」と、煙草を砂に押し 付けながら吉川くんが笑っていた。

誕生日にあゆちから届いた、メッセージの巻物がたくさん入った小瓶を見せ ていたとき「今度、彼女にそのサプライズ使ってみます」と嬉しそうにして いた。話すとパワーもらえるんです、と夏頃に言ってくれてから、ときどき こうして会っては「しあわせな出来事」を教えあいっこしている。幸せそう な笑顔に、私もパワーをたくさんもらったよ。

いつか読んだ桜に纏わる雑学だとか、月の秘密だとか。言い終わったあと「 俺もその話知ってましたよ」と、くすくすと笑われるたびに口惜しくなって。 夢を語る好きなひとの前で、苦いアイスコーヒーのストローばかり見ていた 高校生の頃。いまなら、何かあのひとの心に響く言葉が言えるかもしれない なあ、なんて思った。

雨上がりの空に、月が煌々と。兎の神話は日本だけみたいだから、留学した ら月の模様がどんなだったか教えてね、と笑った。駅で捕まえたタクシーの 運転手に行き先を伝えると、ふと時が止まったような沈黙のあと「わかりま した」と優しい声が響いた。

夜の信号は、ぞくっとなるほど目に焼きつく。「久しぶりに会った友達だか らつい終バス逃してしまって」と呟くと、「楽しかったみたいで何よりです」 と笑っていた。その声色がとても心地よくて、懐かしくて。「運転手さんに 以前にも会ったような気がするんですけど」と瞼を擦りながら笑うと、「行 き先を伝えて乗ってくれた瞬間に、気付いていましたよ」と、また優しい声 が響いた。

久しぶりのお酒に思考をふわふわとさせて乗り込んだ、いつかの深夜。父み たいに柔らかく笑う運転手さんだなあ、とそのとき思っていた。それ以来、 タクシーは利用したことがなかったのだけれど。「もう十年も運転手してい ますが、こういったことは初めてですよ。偶然、ですね」と。

雨に濡れたアスファルトに、白い線が疎らに伸びていた。大きく手を振って、 笑った。ひととひとはそれぞれの時間が交わる瞬間に、とても心地良い空間 を作り出すことができる。私の時間に少しのあいだ居座った運転手さんがと ても温かく余韻を残してくれたように、これから時間を交える人たちにとっ て私もそうでありたいと思った。

3月27日(火) 雨

 

深い茶色をした名刺入れを手に取って、すこし前の私なら隣の赤を選んでい ただろうなあなんて。好みが少しずつ、ゆるやかに変わっている。それはと てもとても心地のよいリズムのように、ゆっくりと。やわらかい黄色のカー テンが、とても嬉しそうに揺れる季節がはじまる。

電気を消したあと、暗さに目が慣れるまでの片時。緊張していることに気付 かれないように、ふはあと欠伸を。とん、とん、と幼い妹の背を優しく叩き ながら「心臓の音に合わせて、こうしてゆっくりとたたいてあげると赤ちゃ んは安心するのよ」と母が笑っていたこと。猫のように柔らかい君の声色は、 とくとくと少し速く打つ鼓動に優しく響いた。

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包みを開くと、パステルカラーがふわっと広がった。彼女が私のために選ん でくれたハンカチが、そうっと手に馴染む。苺をモチーフにしたマフラーを 巻きながら、並んで電車に揺られた日々を思い出す。時は繋がっていて、そ してゆるやかに変わっていること。茶色の名刺入れとともに、鞄へ。

ただいま、と。窓からの陽射しを感じて目を開けると、隣に座っていた年配 の女性がすっとカーテンを閉めてくれた。その合間に見えた海は青々として いて、それがたまらなく心地よかった。手帳に挿んでおいたチケット、日付 がうんと先の未来みたく思えて笑った。この街に来て、3年が経つ。

3月26日(月) 晴れ

 

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