風集う窓側のソファ席に、ゆったりと。アイロンをあてたばかりのシャツみ たいに、折り目のくっきりとした小さな傘をそうっと開く。縁に綴るは“Happy Birthday.” だいすきだよってローマ字で書いたなら、それはどこか遠い国のブランドロ ゴみたく、息衝く。

ホルダー付きのトイカメラは擦れた音を立てて、瞬を切り取る。その音にく すくすと笑って、もう一度ホルダーを指に絡ませた。音を忘れたスピーカー を庇うように、風が頬と耳をくすぐる。誰もいなくなった3階、ふたりで目を 合わせたとたんにテラスへ駆け寄った。笑い声と足音と、頬をくすぐる風を とびきりのBGMにして。

聳え立つビル街の隅っこに、森の息吹をみつけた。おしゃべりに夢中になっ たあとのアイスコーヒーは氷がすっかり溶けていて、喉をすうっと下りてい く。大切な場所は、それが素敵であれば素敵であるほど、ナイショにしてお きたくなる。だけれどこのくすぐったさで頬の緩みは隠しきれなくて、きっ と伝えずにはいられない、なあ。

傘にかけた魔法は、あの子をとびきり笑顔にさせる魔法。うまくいけば、き らりと涙の粒を見られるでしょう。トン、トン、と古い木でできた階段を駆 け下りる音が、森中に響き渡る。次にこの階段を下りるときは、おいしいケ ーキを頬につけて、傘をパンと開いて。

4月27日(金) 晴れ  cafe : GREEN HOUSE Silva

 

添うようにしっとりと両手に馴染むのは、淡い赤香色をした皮革調のブック カバー。使い始めた頃は真新しさが煌々と放たれているようで、電車の中で それを纏った文庫のページを開くのがくすぐったかった。ワントーン分だけ 色味は落ちてしまったけれど、革の持つ独特の匂いは深みを増して、何かを 称してくれているよう。

ゆったりと座れる各駅停車の列車。先頭の車両だとスクリーンが一層大きく なる。昼過ぎの、大阪からの帰り道。読みかけだった小説のクライマックス が気になって仕方がなくて、迷わず鈍行を選んだ。主人公が涙を堪えている シーンで、ふうわっと風が吹いた。驚いて久方ぶりに顔をあげると、ドアが シューと乾いた音を立てて開いていた。

読み終わると、最寄り駅まであと3駅だった。余韻にとっぷりと浸りながら、 大きなスクリーンに視線を預ける。きらりと、遠くで勢いよく振られた竿が 陽を反射した。向かいに座っていた年配の男性が、海に背を向けて座ってい たにも拘らずゆっくりと振り返って目を細めていた。内側から見た彼の眼鏡 にはまた海が映っていて、たっぷりと涙を浮かべているように見えた。

ゆるやかにたるんだ電線と、水平線が交差する。ゆっくりと列車が進むたび に、それらがじゃれているようで。雨上がりのやわらかい光はとても眩しい。 目を閉じても、片時のあいだ海が広がっていた。最寄り駅を知らせるアナウ ンスが眠たそうな声で伝えられた。つられて思わず欠伸をすると、革の匂い が鼻をくすぐった。平日の午後は、とても穏やかに、心地良く過ぎていく。

4月25日(水) 曇りのち晴れ

 

祖父の朝は、糊とインクの匂いを部屋に舞わせてゆっくりと始まる。赤いボ ールペンで丁寧に、定規をあてて線を引く様子はどこか誇らしげだった。四 角くいくつも穴のあいた新聞は軽く、窓からの風を受けてかさかさと乾いた 音を立てていた。その日にあった出来事を、彼の目に留まったものを、古い ノートに貼り付けていく。分厚いノートはぽってりと、糊の匂いがした。

中学生になった頃、お祝いにと一冊の古いノートを祖父からもらった。ニュ ースがいくつも貼られたあのノートかなと思い開くと、数多の天気図とそれ に因んだ暦や季語が何ページにもわたって綴られているものだった。日の移 り変わりが、季節の移り変わりが何十年にも亘って記されているそれは、ず っしりと重たく、そしてとても手に馴染むものだった。

祖父の家に帰る度、“新潟”と小さくプリントされたタオルやキーホルダー を揃いでいくつも買っては、ペンを借りて「えみちゃんへ」「みっふぃーへ」 と、包装されたそれに名を書いていた。幼い妹が封を破ってしまったとき、 大泣きする私を笑いながら祖父は新しい封筒をつくってくれた。可愛い包装 紙を丁寧に切り取って、いつものあの糊を使って。

「実は今日まで東京に行っててお土産があるねんけど、」と2階の木下くん が下りて来てくれた。くすくす笑って、ありがとうを伝えた。初めて会った このあいだの電車の中で、同じアパートならご近所さんらしい付き合いをし たいねと言ったばかりだった。こんなに早くしてくれるとは思っていなかっ たから、それがとても嬉しかった。

東京、と書かれた包装紙を見て、糊とインクの匂いが弾けた気がした。季節 の移り変わりを綴り、日を記すことがとても好きなのは、きっと祖父譲り だ。シンプルなこの包装紙を、祖父ならきっと丁寧に畳んで置いておくだろ う。日の変化を大切に、丁寧に、生きたい。

4月23日(月) 曇り

 

さらさらとした顆粒状のチョコをひとつぶ口に入れるたびに弾けるのは、い つかの帰り道。通学帽のゴムをゆるゆると指に絡ませていると、その手にチ ョコの粒をそうっと乗せてくれた。袋からそのままカラフルなチョコを口へ 入れるえみちゃんはとても嬉しそうで、もったいなくて食べれずにいた私の 手のひらのチョコは、ゆるゆると融けていった。

小さなクッキーをもらって、鞄の内ポケットにそうっと。楽しみをあとにす るのは幼い頃からの癖のようだ。シールも、キャラクターの鉛筆も、いつだ って新しいまま机の中にあった。さっきのクッキーみたいに、こうして封を 開けるのはいつだって自身の部屋だった。新しいままの宝物が詰まった机が あって、封を開けたときの嬉しさが詰まっている部屋だから、こんなにも大 切になるのかなあ。

あと一年だ、と分かっていても。高さを揃えたふたつの棚を繋ぐように、白 い鏡台を。大きな鏡の前で睨めっこをしていたら、いつだって後ろからのち が覗いてきてくれた。鏡を前にするたびそのことを思い出してばかりいたの で、春先まで壁に向けていたのだけれど。思い出も含めて大切なものだから、 やっぱり灯りの下で息衝いていてほしい。

白熱灯をともして、歌詞のない曲を響かせて。ときどき頬杖をついたり、瞼 をこすったりしながら、日を振り返る。この瞬間が、とても好きだ。ひさし ぶりにゆっくりと湯船に浸かって、頬をマッサージすることができた。嬉し いと感じたときに、とびきり頬を緩ませて笑えたらいいなあ。

*

見えないハンドルをぐるりとさせて、“マタ、ドライブ、イコウ”と声にせ ず笑ってくれたひと。いつもわざとらしくコホンと喉を鳴らして、私を振り 返させる。いつか融けてしまったチョコみたいに、嬉しさを伝えずにいると、 気付いたときには遠くにいるのかもしれない、なんて。

次にもし会えたら、とびきり頬を緩ませて、笑えたらいいなあ。

4月22日(日) 曇り

 

 

雨の音だと思って慌ててカーテンを開けたこと、そしてそれは川を流れる水 のいたずらだと笑ったこと、きっと何度もあったはず。同じ景色を、同じ時 間、感じているひとがいるのはとても嬉しい。説明会で隣に座っていた男の 子と最寄の駅が似ていることに驚いていたら、似ているどころか同じアパー トに住んでいるひとだった。帰り道、満員電車の中でくすくす笑った。

工事が進んで面影はなくなってしまったけれど。メイちゃんがしゃがんで隠 れているんじゃないかと思うくらいさわさわと揺れる緑、が好きだった。木 の板をひょいと乗り越えて、バス停まで続く細い坂を上りきる瞬間が好きだ った。神戸の片隅で、誰よりもきっと自然を感じていた。

ベランダは川と面していて小さな丘のようになっているから、一階でも悠々 と洗濯物を干せる。東向きのベランダ、南向きの小窓。すぐ隣には大家さん が住んでいて、月に一度、家賃の入った封筒を持ってベルを鳴らす。晴れた 日はいつも一階のおじさんがホース片手に車を磨いていて、いつしか必ず挨 拶をしてくれるようになった。

住んでいるひとは皆、社会人の方でとても朝がはやい。とても静かで、それ でいて温かい。空っぽになった駐車場の真ん中で、陽を浴びて眠たそうにし ているアパートを見上げるのが好きだった。その朝を、3年間とひと月、共有 していたひとがいたなんてなあ。

人とひとの時間はふとしたときに交わるもの。そしてそれらに気付かずに過 ごしていることのがきっと多くて。目を開けて、肩の力を抜いて、手を広げ て、それらの偶然を心から喜べるように。「目を見て話すとね、ほんとにひ とって近くなれるんだよ」いつか教えてもらったひとことがとても響いた。

4月18日(水) 雨

 

黒い薄手のシャツを羽織ろうと姿見の前に立ったとき、網戸をすうと抜けて やわらかい風がくすぐってきた。ベランダのすぐ傍を流れる川の水が、陽を 受けて頻りに揺れていた。それがとても嬉しそうで、心地良さそうで。黒い シャツの代わりに萌黄色のカーディガンを。

ことことと弱火でポトフを煮込む時間の長さと、想う気持ちは比例するもの だ。人参の橙を隠せずにいる玉葱がつやつやと。蓋を開けて片時のあいだ、 目を閉じる。貸したままの、大きいほうのフォーク。対の赤いフォークが少 し寂しそうにしていた。

眉を寄せたら皺になるぞ、と笑われたけれど、やっぱり涙を止められなかっ た。自身で唱える“大丈夫”よりも、大丈夫だからと頭を撫でてくれるひと がいることの心強さ。陽を受け揺れながら流れていた水みたいに、寄り添う ように目を閉じた。心地良くて、温かくて。

スープ皿が白く、艶やかに。おかわり、と席を立ったあと台所で空になった 鍋に水を張る音が聞こえた。なにか少し愛を込めると、必ず、同じ分だけ返 ってくること。そんな幸せなループがあることに気付かず、私はあのとき求 めてばかりいた。もう零したくないとばかりに、ありがとうと心を込めて伝 えると、水張ったくらいでいいよ、とくすくす笑われてしまった。

バイクの音が遠く。消し忘れた玄関の灯りが余韻のようで、なかなか消せず にいる。すぐに電話をかけてしまう癖はこれから先もなかなか治りそうにな いけれど、だんだんと、その間隔を広げられればいいなあ。ただ、こうして 久しぶりに会うたび心地良さを届けられると、単純な私はまた声が聞きたく なってしまう。それでも忘れろだなんて、反則だよ。

日付に、もうひとつの余韻。やっぱり、とても、大切に想う。

4月16日(月) 曇り

 

畳んだパーカーを重ねていたときに、見慣れないデザインの封筒をみつけ た。手に取った行為を叱るように、ずきんと。便箋に綴られたひとことに、 離れているあいだの時間を感じた。“たばこ、どれを買えばいいのかわかん なかったよ”言葉は時空をも越えて、届くもの。ぴかぴかに灰皿を洗って、 クマの小さなぬいぐるみを乗せておいた。

母の隣で眠ることで、香りを感じて眠ることで、とても安心することがで きたように。この心地良さは家族が織り成すものだ、と思う。親離れはすん なりとできたのに、なあ。ハイライトを悠々と灯せるほど広くて長い道を通 るときに、うんと切なくなる。この道を、どんな想いを抱きながらバイクを 飛ばしていてくれたんだろう、なんて。

パーカーの畳み方が少しずれていたところで気にも止めないひとだから、小 さなすれ違いも畳み方のずれみたいにしか思わないだろうなんて。だけれど 好きだからこそ、気にも止められないような小さな思いやりができること、 どこか忘れていた。もっと丁寧に、接することができればよかったのかな。

ライトは遠く、遠く。久方ぶりに素直に綴った手紙を、あの便箋みたいでい いから捨てずに置いていてほしい。淡い春や眩しい夏が過ぎた、またパーカ ーを羽織る頃に読み返して、すこしでも何かを想ってくれたらいいなあ。こ んなにもずるくさせるほど、あの“ひとこと”がずきずきと響いている。

4月12日(木) 晴れ

 

 

背中にじん、と陽が届く。父に買ってもらったコートを羽織らずにこうして スーツを着るのはとても久しぶりだ。広い窓の向こうに、降りたくなるほど 綺麗に桜を咲かせた公園をみつけた。車内の人たちの視線がふっと高くなる。 桜を詠んだ歌人がいたように、桜を綴るひとがたくさんいること。揺れる音 は遠く遠く、とても心地良くて。

広い肩は、私を素直にさせるのがとても上手だ。背が低いだとか子どもぽい だとかからかってばかりいたけれど。時計の針が傾かないでほしいなあだと か、斜めに差し込む白い陽が眩しいなあだとか、感じるもの全てに意味があ るようで。だけれど今の私には少し眩しすぎて、目を閉じずにはいられなか った。

いつか大好きだと言ってくれたとびきりの笑顔を、しばらく見せていない。 会うたびに目を腫らしてばかりいるように思う。好き、を超えるととびきり 切なくなるものなのかな。私の名前を聞いたときに、私の笑顔が浮かぶとい いなあ。強がってばかりいるけど、きっとのちの前でいる泣き虫の私が、ほ んとうなのかなとときどき思う。

*

手帳の後ろ、指文字を描いた表を指で追うように。サトウという苗字を手話 で表すと「甘い」と同じなんだよ、と教えてもらったことがある。なぜだか それがとても羨ましくてしょうがなくて、言葉の響きだとか意味っておもし ろいなあって。甘く、甘く。いつしかそれはおまじないのように、魔法のよ うに。

4月9日(月) 曇り

 

背筋がふるっとしたので、いつもそうしていたように眠たい目を擦りながら 左手でストーブのスイッチを探したのだけれど、新しい月になったからクロ ゼットに片付けたことを思い出した。少し厚手のパーカーを羽織って、大家 さんの家まで歩いた。プランターに、色とりどりのチューリップ。肌寒い朝 でも、こうして外を歩けば季節を感じることができる。欠伸をしたあとの、 少し霞んだ視界が好きだ。

*

玄関を開けると、文字通りの靴の山があった。灰を落として黒くなったテー ブルクロスに、まるい灰皿のあと。ため息を隠せない私に、これはあいつの せいだからとジャガくんを指差してのちが笑っていた。悩みごとがあるから と、ジャガくんは舞鶴から原付でのちを訪ねてきたみたい。床に置かれた 「関西エリア」のガイドブックには、まあるく癖がついていた。

「うちも何かあるたびにノチに電話してしまうなあ。ついつい頼ってしまう」 と言うと、そうなんだよなあ、とジャガくんが笑っていた。お雑炊を作って くれているのちの鼻歌が台所から聞こえた。優しいもの、に、ひとは集まる。 「俺の悪口聞こえてきたぞ」なんて丼を熱そうに持ちながら、のちが笑って いた。その優しさに、惹かれるんだろうなあ。

けらけらと、ジャガくんのひとことに顔を真っ赤にさせて笑うのちは楽しそ うで、片付けるのをすっかり忘れられているこたつが、とても暖かかった。 大きなスプーン、いつからのちはこんなに料理が上手になったんだろう。棚 の上にいつかの小さなぬいぐるみを見つけて、少し嬉しかった。こたつみた いに何もかも片付け忘れてみるのも、たまにはいいのかもしれないなあ。

「明日には舞鶴戻るよ。」とジャガくんが言うと、「まだ居てもいいんやぞ。」 とのちが笑っていた。こたつに包まりながら、「のち、ジャガ君帰るのが寂 しいんよきっと。居てほしい、って言いよるねん」って笑った。ふと、いつ かの電話を思い出した。来てもいいんやぞって、ほんとは。都合のいい頭の 変換機をふるふるとさせて、笑った。

夢に、現実に、目の前の壁がやけに高く感じられて。悩みごとがあるのに、 みんなの前では強がってばかりで。一人暮らしのひとほど、実はとてもひと に会いたがりなこと。だけれど、強がりの中の弱さを見せれるひとがいるこ とってとても幸せなことだ。ジャガくんと私にとってのそれが、のちなのか な。

少し肌寒い4月の始まり、声響く深夜。10年来の友情には敵わないけれど、 いつか私を訪ねて深夜に転がり込んできた友人がいたら、余り過ぎるほどの 温かいお雑炊をつくってあげたいなあ、なんて思った。

4月4日(水) 曇り

 

錆を隠すためにカラーテープで角を縁取った、古い本棚。よけいに古さが際 立ってしまったようで、擦り付けるように父に譲ったことがある。茶色に褪 せた本がぎっしりと埋まったそれは、テープの鮮やかさをも気にさせないほ ど父の部屋に馴染んでいた。こうした家具のひとつひとつも、愛を受けてい るかそうでないかはすぐにわかるもの。

いつも静かで、きちんと整頓されていて。試験前になると必ず、妹は自身の 部屋を抜け出して父の書斎で教科書を広げていた。大切なものは父のクロゼ ットにそうっと飾ってもらうことで、ずっと輝きを失わないような気さえし た。わいわいと賑やかで笑いが絶えないリビングのような空間は好きだけれ ど、心を落ち着かせたいときにそっと訪れたくなるような、父の書斎みたい なひとになれたらなあ、とときどき思う。

風水だとかはあまり詳しくはないけれど、家具の位置を変えるだけで部屋が 息衝くよう。月を数えるように、増えていった白い家具たち。小さな本棚を そうっと高い位置へ。時が経た印を床にみつけた。これで大切な本たちを、 手に取りやすくなった。大切なものを、大切にすること。とてもシンプルな ことなのに、忘れがちなこと。

携帯電話の向こう、煙草に火を付ける音に気付くようになったのはいつから だろう。声を聞けたら、それだけでうんと幸せになれたのに、なあ。読んだ 本をそうっと本棚に戻すように、手帳についた折り目をそうっと直すように、 そんな当たり前のことができていなかった。大切なものを、大切にすること。 とてもシンプルなことなのに、あのときの私は、とても難しく感じていた。

4月3日(火) 曇り

 

スコップを握ったのなんてきっと、中学のとき以来だ。土を篩いにかけなが ら「育ってきて、白か黄色の花が咲きそうな苗を先生にあげるね」と、なっ ちゃんが笑っていた。なっちゃんママは外出中だから、と参考書を放ってベ ランダ用のスリッパを渡された。放った参考書、開いたままのページには “双子葉類”のなかまが互いを競うように彩っていた。

穴のあいた如雨露がぽたぽたと、ベランダに水玉を描く。洗濯物の匂い、土 の匂い、少し陽で褪せた揃いのスリッパ。ひとが、家族が生活している空間 はどうしてこんなにも温かいんだろう。風がすうっと届いたリビングには、 アンパンマンとお弁当、が刺繍された手提げバッグがひとつ。「明日からた っくんが保育園に行くから、お母さんが昨日作ってた」と、ベランダでしゃ がんだままのなっちゃんが教えてくれた。

*

忙しいときほど、物事を俯瞰することが必要だ。陽がやんわりと届いた小さ な教室、重たい瞼。ふっと肩の力が抜けたとき、いま私が欲しかったのはこ の言葉だったのだなあと気付かされる。大空を羽ばたく鳥の目で、かあ。い つも持ち歩いている先の細いボールペンを車の中に置いてきたことを思い出 した。ノートを閉じて、心にそっと。

言葉を探るようにして、ゆっくりと話すひとがいた。ひとことひとこと、に とても意を込めているようで、私はそれを向かいの席で見ているのがとても 好きだった。日々を丁寧に生きたい。意を込めて、生きたい。古いレシート、 擦れた字に秋の日付をみつけた。きっと、忘れたくなかった。

4月2日(月) 曇り

 

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