それはいつか空に浮かべた白い息みたいで、視界は霧で覆われていた。深夜
2時過ぎ、道路はとても静かだ。うとうととした意識の向こう、運転席で肩の
力を抜けずにいるのちを隣に感じて、とても心地が良かった。目が覚めると
霧はすっかりと晴れていて、昨晩のことも夢だったのかなあなんて。枕元に
あった携帯電話、ひとつの着信履歴。夢じゃなかった。 いつだったか「免許が取れたらイチバンに助手席に乗せてね」なんて小さな 約束を交わした。紫色の線がすうっと伸びたTシャツを着ていたのちと、教習 所の申し込みに行った帰り道のこと。手を繋いで、じり、と届く陽に目を細 めてばかりいたときのこと。 「夢が叶ったから嬉しいんかあ」と、運転席でのちは笑っていた。小さな約 束、忘れていてもよかったのに。どこまで優しいのだろう、温かいのだろう。 いつか肩の力も抜けて、片手運転なんて始めた頃、ぐんとスピードを上げて 風を切る頃。こうしてのちの左頬を見つめたりするのは誰なのだろうなんて、 らしくないことをぼんやりと思った。
5月25日(金) 雨
真っ直ぐに伸びる電線の影は、橙色のトラックに引かれたコースみたいだ。 イヤホンを外して、ぺたぺたのサンダルを履いて。時計を外して、髪を緩く 結って。ぶん、と羽の音がした。見上げると、寂びた手すりに誰かの上履き が干されていた。ぽたぽたと、下へ下へと水が逃げるのを見るのが好きだっ たなあ、なんていつかの土曜を思い出した。 褪せた看板の向こう、淡い色したベビーカー。開けたままの玄関の奥に、絶 えない笑い声。そうっと、耳を澄ます。声に惹かれるように、いつもとはひ とつ手前の道を曲がった。坂を上ると、小さな公園をみつけた。低いベンチ は、ペンキがすっかりと剥げていた。いまここにあのひとがいたらきっと、 向かいのベンチで猫みたいに目を細くして、笑っているだろうなあ。 空はきょうも澄んでいて、それに映える緑がとても優しくて。電話の向こう、 曖昧な鼻歌をBGMに、目を閉じる。声色だけで、表情が浮かぶ。いつか眠れ なかった夜に、「のっちゃんの声録音しといたら、いつも安心して眠れるか も」なんて笑ったことがある。今でもときどき、そんなふうに思うこと、あ るよ。 * ゼミの先生の研究室。訪ねる度に「何か飲みますか?」と。棚には溢れんば かりにお菓子があって、壁には笑顔の写真がずらりと。先生が愛されている 理由は、きっとこんな静かな優しさ。居心地がいいって、素敵だなあ。少し ばかり季節外れの温かいココア。トントン、と、また誰かが居心地の良さを 求めてドアをノックしていた。 5月24日(木) 晴れ
ゆるく掛けるように干したままだったスカートを、風がベランダの内側へと やった瞬間を見た。濡れた髪は洗濯物を干しているあいだにすっかりと乾い てしまった。淡い色をしたワンピースが嬉しそうに靡く。蝶が自身の羽の色 に合う花を探すみたく、ひらひらと。時計の針の音を気にせずに、こうして 朝を過ごすことがとても好きだ。 練習のときに使う通気性のいいシャツが欲しい、とエスカレーターへ乗り込 んだ。鏡越しに見るのちの肩は以前よりもうんと広くなったように思う。肩 を叩いてあげながら、スクリーンに映るフットボールの試合を見た。赤いス トップウォッチ、ロッカーに忘れたままだったかなあ。手がふいに触れて、 わざとらしく離してしまった。 けんかをしたときでさえ、街の真ん中で泣いたときさえ、手を繋いでいた。 決して綺麗とはいえないそのごつごつとした手が、指が、とても好きだった。 もう指が気のままに泳いだりしないように、ぎゅうと、肩にかけていた鞄の 持ち手を握った。 いつかぎゅうとしてくれたみたく、枕を抱きしめる。陽の匂いの向こう、大 好きだった香りは遠く、面影もなく。晴れた日は毎日ベランダに干していた。 こうして川の流れる音を聞きながら、想いながら伏せるのに、陽の匂いを纏 った枕はとても優しい。ここで過ごす最後の春は、とても、眩しい。 5月3日(木) 晴れ
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