翌日に試験を控えていたいつかの夜、好きなひとと珈琲を飲むことがあった。 カフェインの効果と好きなひとにあった余韻とで眠りにつけず、さっき交わ した言葉たちを繰り返す。ほうっと、何度も何度も。そうするうちに想いは 募り、魔法にかかったみたく昨日よりも好きになる。珈琲の魔法に酔うのが、 とても好き。

17歳だったそのときの私に、魔法の効き目はとても強いものだった。21歳に なった今、効き目は弱いもののその心地良さの虜となった。お酒に酔うより も、とろんと、とても心地が良い。瞼が重いぶんだけ、たぷたぷと、耳まで 浸かるように。募り募る想いは、そうっと心に秘めて。

海沿いをまっすぐに、ハイライトを灯して加速していく。静かな車内には、 しっとりとした古い洋楽が似合う。またひとつ、この街が好きになっていく。 珈琲の魔法は、眠りにつくまできっと続くもの。縁だとか繋がりだとかを、 ときどき本当に信じてしまいたくなる。

心が満たされると、穏やかなものをまた呼寄せることのできる何かを纏える のかもしれない。それはとても素敵なリズムで、とくとくと、鼓動のように 温かく一定に刻まれているよう。きょうを、心に記すこと。そしてまた、き ょうの余韻を明日へと繋げていくこと。珈琲の余韻が、まだ眠らせてくれな い。心地の良い、それは魔法のように。

6月20日(水) 晴れ

 

駅前で買った小さなキャンドルに、そうっと火を灯す。夏の近付く夜でも、 しっとりと想いを寄せることができること。キャンドルを囲んで食事なんて きっと君は首を振って嫌がるだろうから、これを灯すのはひとりのときと決 めたよ。目を閉じて、想う。もう一度手を取ってくれて、ありがとう。

のちの猫みたいな髪はとても柔らかくて、声はとても甘い。いつか突き放し たのは私だったのに、必要とするのも私だった。買ったばかりの小さなウサ ギのぬいぐるみをのちの頬に寄せて、想いを込めた日。あのときウサギが代 わりに伝えてくれたのか、そのときからのちの眼は、またとても優しくなっ た。

「よかったね、てお前。めちゃ適当な相槌やなあ」と、中谷くんが笑ってい た。「だってこの子いつも幸せそうに話すからさあ、思わず“よかったね” って言うてまうんよ。なあ」と、のちが私を見て笑った。のちと私と、そし て他の誰かといると、ときどきこうして心の言葉を聞くことができる。嬉し くて笑っていたら、ほらな、とまたのちが笑っていた。

梅雨の合間のとても晴れた日に、大家さんがあの植木をすっきりと整えてく れた。それがとても涼しげで、清々しくて。胸のあたりまであった髪を、肩 までぱっさりと。真似をしたわけではないけれど、気分を新たに、また君を 想いたいから。猫みたいな目をして、似合うよって笑ってくれるかな。目を 閉じて、想う。

6月18日(月) 曇りときどき雨

 

サンダルを高く放ったのは、振り返って笑ってほしかったから。風が砂に模 様を描いて、その描きたてのキャンバスの上を思いきり駆け抜けた。両手を するりと抜けて、また砂は新しい模様を成す。かさかさの手のひらに、右手 を重ねた。ぐうと引っ張られて、頂上へ。寝転がって、瞼を閉じる。聞こえ るのは波の音と、鳥の声、そしていつもよりもうんと速い鼓動だけ。

ときどき、別れてからもよく一緒にいられるね、と言われることがある。リ ダイヤルボタンを押せばすぐに繋がるほど、まだとても近くにいる。好きだ ったと同時に、誰よりも心を許せるひとだった。助手席に座って、窓をうん と下げて、風を感じた。いつか扇風機に話したみたく、わあっと風に笑う。 くすくすと、隣にいつもの笑顔。とても自然だと感じているのは、私だけな のかなあ。

帰り道、途中のコンビニでのちはペットボトルの緑茶を買っていた。いつも 最後まで飲みきらずに、のちはそれを車の中に忘れて帰る。朝、車に乗り込 むたびに私はそれを見て、ふと、余韻に浸る。そんなゆるい繰り返しの日々 が、いまはとても切ないけれど、とても失いたくないもの。

東側の窓、陽の届きがいつもよりも弱いなあと思って開けてみると、植木が うんと成長していた。網戸越しに、朝の静かな町を見るのがとても好きだっ たのだけれど。これだと空と、遠くの背の高いマンションしか見えそうにな いよ。日々はゆるやかに、変わっていく。体育座りをしながら朝を見ていた 日々のことも、いつか忘れてしまうのかな。

あれから変わったことといえば、私の前で「ちょっと、ごめんな」と、煙草 に火を点けるようになったこと。「いいよ」と、笑えるようになったこと。 のちが火を点け目を細める、そのひとときだけ、まだ想っていてもいいかな。

6月6日(水) 晴れ

 

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