父から古いノートを二冊、もらった。褪せた切手がそれぞれの頁で息衝いて いるからか、静かに匂いがする。父の書斎の匂い。切手が絵柄ごとに分けら れて丁寧に一枚いちまい包まれている。そのほとんどが一色刷りとなってい て、帯びた黄みととても馴染んでいた。

父は多くを語らないひとだ。だから、いつも想像する。どんな想いでこのノ ートを譲ってくれたのか、切手を集めていたのは私と同い年くらいのときだ ったのか、どういうときに読み返していたのか、母には見せたことがあるの か。多く想うことはあるけれど、私はいつも訊ねない。

アンティーク調のものが好きでよく集めているけれど、本当に年月を重ねて きたそれには敵わない。色、手触り、匂い、全てが違う。角がすこしまある く剥げていた。大切にする、というのは新しいままとっておくことではなく、 長いあいだ丁寧に使うことなのだと、幼い頃に教えてもらったことを今強く 実感できたように思った。

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ひとつのものがつくられるのと同じくらいの時間をかけて、それを眺めてみ る。これは糸井氏が呟いていたひとことなのだけれど、長く、私の心のなか で残る言葉だ。父がノートにどんな想いを込めていたか、ノートが父の手に 入ってから私の手に渡るまでの時間と、同じくらいのそれを費やしてみてこ そ想いに近づけるのかな。

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わざと西口で降りて、古い商店街で働いているすきなひとに会いに行ったい つかの冬。東口のバス停で、缶コーヒー片手に待ってくれていたことだとか、 この街を離れて何年かすればもう思い出さなくなるのかな。神戸と雖も少し 離れたこの街はとても静かで、それでいて温かい。

過ごしてきた時間と同じくらいの時間を費やせば、伝えられるだろうか。こ の街で、綴りたいことがまだたくさんあるよ。伝えたいことや、ひとが、ま だたくさんあるよ。

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鼻をくすぐるのは、買ったばかりのマフラーの匂い。シンプルな千鳥格子の それに早朝の真っ白な息を重ねて、坂道を駆ける。高校生の頃に愛用してい た苺のマフラーだなんてもうできないなあ、なんて。ぱたぱたと、朝に余裕 がないところは何ひとつ変わっていないのだけれど。

フォームミルクをそうっとのせたとき、「おいしそうですね」と年配の男性 がカウンターの向こうで笑ってくれた。上手にスチームできたと思っていた ところにそのひとことだったから、とても嬉しくて。朝から、誰かにそんな 優しいひとことを届けられるくらい、心に余裕を持ちたいなあ。

カウンター越しに、それぞれの朝の過ごし方をみつめる。新聞をゆっくりと めくる音、朝のおと。とても静かで、だけれどひとりで朝を過ごすよりもず っと温かくて心が騒ぐ。冬の朝に、珈琲の香り。心が騒ぐのは、実家の静か な朝と繋がるからなのかなあ。ストーブの匂い、ぼやけた視界の中、時計を 探す。父がゆっくりと新聞をめくった音、冬の朝のおと。

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店先にいくつも展示用の自転車を並べた、小さな一軒の雑貨屋さんがある。 その自転車があることでとても絵になるなあ、と来るたびに思う。古い外国 の切手、革小物、おもわず笑ってしまったマドラーや、ロディアのメモ帳ま で。向こうで帽子片手に鏡と睨めっこしているのちは、いつも私へのプレゼ ントを選ぶとき、この雑貨屋さんへ立ち寄るのだそう。好みをすっかり知ら れているのは、とてもくすぐったい。

変わりゆくもの、変わらないもの。好みもゆるやかに変化し、だけれどふと したときから根を張るように自身に染み渡る。千鳥格子のマフラーと揃いの 色をしたレターセットを手にレジの前で待っていたとき、「ん?店員さん来 ないからそこで大人しく良い子で待ってたんか。」と子どもをあやすみたく のちが笑った。

いまの自身を心から受け入れてくれるひとがいることの心強さ。心の支えと なっていること、どうやったら伝えられるんだろう。カウンター越しに朝か ら優しさを伝えてくれた年配の方みたく、自然に言えたらどんなに素敵だろ う。深みのある言葉を、そのままに伝えられるひとでありたい。

12月10日(月) 晴れ

 

それを初めて手に取ったのは、昨年の夏のはじまりのこと。とてもシンプル な装丁で、どんな場所で読み耽ったとしても、その空間にすっと馴染むとこ ろがとても好きだった。タタンと、電車の揺れる音に合わせて影がそれを撫 でている。まだほんの数ページなのに、一年と半ぶりの日常にすうっと馴染 んだ。心を、あずける。

来週末、新しい家を探しに行く。両親とスケジュールを簡単に確認して、手 帳に小さく印をつけた。楽しみだ、と笑ったけれど、春への期待以上にいま はまだ、この町が好きだ。4年前、高松を離れたときとは心持が大きく違うよ うに思う。以前この部屋の天井に星のシールを貼り、そのまま越したひとが いたように、私も何か残したくなる。

星のシールの仕掛け人とは後に会うことになるのだけれど。私もまた、あと の住人と繋がりを築くことができたらなとさえ思う。一人暮らしだったのに、 この部屋でたくさんのひとと笑い、語り合った。生まれて初めての恋人がで きたのもこの部屋だったし、泣き果てて塞ぎ込む私を淡い香りで癒してくれ たのも、いつもこの部屋だった。

いつだったか父の書斎みたいなひとになりたい、と思ったことがある。ひと と空間の持つ温かさは似ている、のかなあ。変わらずに自身を受け入れてく れて、守ってくれる。両手を広げて、心を、それにあずける。この部屋をあ とにするとき、うんと涙が出るんじゃないかなって、そんな気さえするほど 何だか大切だ。

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東向きの窓から、季節外れの心地良い陽が届く。進みの遅い各駅停車の電車 の中で手に馴染んでいた一冊の白い本は、その陽を受けてまた嬉しそうにし ている。付けたままのテレビの音がだんだんと遠くなっていくのを感じなが ら、ふいに手に取った一冊に読み耽る、この部屋で過ごす午後がとても好き だ。

12月9日(日) 晴れときどき曇り

 

気まぐれなメールが届かなくなったのは、幸せに過ごしているという証拠。 車窓から海を見渡すとき、必ず、一軒の古い蕎麦屋を追ってしまう。ふと、 いつも。会うたびいつも「幸せか?」と、訊ねてくれる友人がいる。私はそ れにくすくすと、「幸せです」と笑う。しばらくゆっくりと話していないけ れど、幸せに笑っていますか。

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少しずつ、クロゼットの中を片付けている。引越しの時のまま開けずにいる ダンボールもあって、笑えてきた。色褪せた、一枚のプリント。それは中学 のときのリレー表で、好きだった男の子の名前の横に小さな星が書いてあっ た。くすくすと、だから、捨てられないや。またいつか、忘れた頃にみつけ て、想いを届けて。

想いを届ける。ばたばたと忙しい毎日の中で、ほっと自身の時間を楽しめる のが、電車の中だ。膝にお気に入りの白いトートを乗せて、すっかりと手に 馴染んだ厚い手帳を広げて。可愛いカードに、赤い帽子のシールをひとつ。 届け届け、想いよ。(どうかもう少し待っていて、ね)

揺られる文字もどこか愛しくて、眠たげなアナウンスも心地良くて。揺られ るそれぞれの人が、ふと、素顔になる瞬。「通勤電車ってふてくされた顔の ひとが多いだろ?」と、いつか笑ったひとがいた。私はこの素顔になる瞬に、 いつも笑っていたいなと思うのです。とても難しいことだけれど、でも、文 字を綴るときだけはやっぱり自然と。

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枝ちゃんが旅立ってから、2ヶ月が経った。彼女が好きだと教えてくれた曲を 部屋に響かせて、目を閉じる。まるで恋しているみたい。空と海の青が似合 う、とても気持ち良く歌うひと。卒業旅行、あなたに会いに行く一人旅でも いいなあ。夏の空のした、あなたの歌声を聴きたいです。

12月6日(木) 晴れ

 

汽車みたいだねと笑われても平気なくらい、息が白くて、空はどこまでも水 色で。バス停までの道、ずっと仰いでいた。カメラを向けると、一面に水色。 辿った先に、同じように仰ぎ笑うおじいさんがいた。階段を駆け上がる私に 向かって「もうひとつバス行っちまいよったがな」と、笑っていた。大丈夫 と伝えようと思い振り向くと、彼はまだ空を見ていた。

意識をして息をするだけで、いつもよりも幾分か朝がゆっくりと過ぎるよう。 電車が交わるとき、古い映画みたく車窓越しにタタタンと海が広がる。いつ も同じ時刻の電車だから、縁取られるその瞬も同じで。この時ばかりは、心 をからっぽにさせて。水面の粒がとても綺麗だと、いつかノートに夢中で綴 った日。遠いあのひとに、いつか伝えたかった。

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誕生日プレゼント何がいい?といつか妹に訊いたとき、「おねえとお揃いで ずっとつけれる、大人になっても使えるアクセサリーがいい」と可愛いメー ルが返ってきた。親しい友人と揃いの何かを身につけるのが私もとても好き だから、そのメールがとてもとても嬉しくて。あの、プレートと遠い国のコ インが重なったペンダントにしよう、と思った。

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夜の空気をひんやりと連れてきたタオルを畳みながら、くすくすと。いつの まにか、買った覚えのないタオルがいくつも。のちは、すぐに何でも忘れて 帰る。今度こそ持って帰ってねと言うとちゃんと頷いて笑ってくれるのに、 それでも。白い部屋に似合わないはずの青いタオルは、陽に褪せて優しく馴 染んでいた。

たくさんのチラシを放ってノチが考えたクリスマスの予定は、ツリーを飾っ てシチューをふたり作って、映画を借りて二人で観ること、だそう。くすく すと、そんな温かすぎる幸せなプランにふたりで笑った。お互い一人暮らし な分だけ、きっとこういう家族みたいな温かさを常に求めているんだろうな って思う。

12月1日(土) 曇り

 

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