「今、新しい家に一人でいます。赤い机の匂いがする。」と、神戸に越して いちばん初めに綴った言葉をみつけた。赤い机はいつかの晴れた日、白へと 塗り替えられたのだけれど。古い手書きの文字はころころとしていて、あど けなさで溢れていて、素直すぎて照れくさかった。分厚い、水色の日記帳。

妹が、志望していた高校に合格したそう。合格発表のときね、かっこいいひ とをみつけたよ、と電話の向こうでけたけたと笑っていた。これから、たく さんの恋をするのだろうなあ。水色の日記帳はたっぷりと高校時代3年分の ものだから、彼女に贈ろうかなあ。重なる想いが幾多とあるだろうから。

春から同期のえんちゃんと、お昼から自転車で町々を駆けた。頬をくすぐる 春の風がとても心地良くて、何度も気持ちがいいねと笑った。愛車ヴィッツ でのんびりとドライブするのも好きだったけれど、赤い小さな折り畳み自転 車に乗るのも好きだなあ。空を見上げて風を受けるだなんて、それこそ高校 生以来だ。

バニラのアロマを焚いて、間接照明だけをそっと灯して、Do As Infinityの PVを映して。幸せなひととき。春からきっと、今までみたく頻繁に会えない だろうから、会えるときはいつも心穏やかでいたい。慌しい日々の中に忘れ てきたもの、すこし、思い出せた気がした。

3月23日(日) 曇り

 

卒業式に参加できない私のために、深夜の電話でのちが「卒業おめでとう」 と、ふいに言ってくれた。それがとても優しい声で、素直に嬉しくて、涙し てしまった。新しい家で、高い天井を見上げながら、日を振り返る。経た月 日の中で得たもの、それらは曖昧なりとも形となって、そうっと自信へと繋 がっている。

買ったばかりの赤い折り畳み自転車が盗まれたりしないように、と、最寄駅 までは歩いていくことにしている。オフィス街がすぐ隣にあるけれど、どこ か懐かしさも感じられる、静かな街。空の色が優しかったから、いつも羽織 っていたジャケットを置いてきた。そうっと指先を袖に隠して、まだ早かっ たかな、と思った。

午後の待合室、後ろの席に2歳くらいの男の子がいた。じい、と目が合って、 やわらかい笑顔を向けてくれた。席を離れたあと、ふと、母の声を思い出し た。母は必ず、赤ちゃんや子どもを見つけると手を振ってあやしながら、可 愛いねえ、と笑うのだ。所構わず優しく笑いかけるひとに、私もなりたいな あ。

誕生日、何の料理食べたい?と訊くと、必ず「ん。お味噌汁がいい」とやわ らかい声。それは付き合い始めた頃から変わらなくて、物足りない気もする けれど、とびきり嬉しくもある。週末は彼の引越しもあるから、新しい家で 一番につくってあげたい。笑顔を、想い浮かべて。

早起きした朝、ニュースで桜の蕾が開いたとキャスターが笑っていた。淡い 春の色を、匂いを、笑顔をまた綴れますように。カメラをそれらに向けるよ うに、私は、それぞれの緩やかな変化を綴りたいと思うのだ。

3月22日(土) 晴れ

 

幼い頃、手をあわせて口ずさんだあの歌を、繰り返す。車窓から見る景色の 流れは時計みたいで、遠く遠くの山々はゆうったりと、線路に添う草々は次 々に表情を変えて迎えてくれた。タタン、と誰かさんがアパートのドアを叩 いたみたいな音が、繰り返し響く。揺れの中で綴った言葉は、いつもよりも のびのびと、陽を受けていた。

いつか、片想いのひとへの想いを飽きもせず綴ったように、いまは、大切な ひとが住む町だとか、色、音、匂いを綴りたいと思う。緩やかにその対象こ そは変わってしまったけれど、いつまでも変わらないのは、それらがとても 魅力的で、感じたことをずうっと先も覚えていたい、その一心だ。 旅のあと、たんちゃんから電話があった。同じアルバイト先だったころは毎 晩顔を合わせていたけれど、話すのは半年ぶり。神戸にもういないことと、 枝ちゃんとふたり会いにいっていた車を売ったこと、を伝えた。建前を抜い て本音で語り合える最後の出会い方、だったのではと思う。彼らとの繋がり。

神戸が今でも大切な町なのは、それがこれからもきっと変わらないのは、彼 らと過ごした町だから、だ。恋愛に涙して、朝まで夏の海で騒いで、おいし いお酒を知って、ギターの音色と笑い声を子守唄にして眠って。こんな幸せ な、ありふれた毎日があったから。

降り立つ町それぞれに、誰かのそんなありふれた、幸せな毎日を演出させる 風が、色が、音があるんだって思ったら。途端に車窓の向こうがきらきらと して見えてきて、重たい瞼をこすってその輝きをずうっと見ていた。時計み たいに移りゆく景色はどれも、誰かにとっての、大切な町だ。

3月10日(月) 晴れ

 

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